光嶋裕介との出会い

 1999から2002年まで3年の間、私はフィンランドに居ました。順序良く簡潔に説明したいと思います。


長野オリンピックがきっかけでクロスカントリースキーのコーチングの勉強にチャレンジした私は、初めの一年間を中部のVuokatti, 後半は北極圏内にあるRovaniemiという寒い地域で過ごしました。当時のオフィシャルサンタクロースは元スキー選手でよく森の中で会いましたね。一応、一年間のプログラムを網羅し、卒業プレゼンは「インターネット コーチング」。ネットを使って日本の選手をコーチングするモデルを発表したりしました。今から18年前の話です。時代を先取りしすぎちゃいました(笑)日本人で初めて、プロフェッショナルコーチングのライセンスを取りましたが、その頃には写真に没頭するようになり、ヨーロッパバックパック旅行の後、首都ヘルシンキで無謀にもフリーカメラマン宣言をして、Helsinki新聞や、フィンランド政府観光局の撮影仕事を貰ったり、スパイクタイヤをはいた自転車メッセンジャーなどをしながら暮らしていました。


2001年、フィンランド留学中の関本竜太さんと一緒に「フィンランド建築探訪」と称してフィンランドのモダン建築を見て回っていました。Riotaさんから解説を聞き、僕が写真を撮っていました。(自称プロだったけど、いま見るとアマチュア極まりない写真ばかりで恐縮する)二十代後半の私にとって、建築というものを意識して見ることは新鮮でした。電車やバスを乗り継いで、フィンランドが世界に誇る建築物をその土地の空気と共に感じることが出来たのは素晴らしい経験でした。


光嶋裕介との出会いはちょうどその頃、2001年夏フィンランドはヘルシンキでした。街中で何かのパーティーかイベントがあった日です。早稲田建築の学生であった光嶋裕介は毎年バックパックひとつで世界の建築を見て廻っていたと言います。光嶋通には有名な話でしょう。その夏はフィンランドの建築巡りに来たというわけです。ヘルシンキ在中の日本人が何人か集まっているところでした。関本竜太さんも一緒に居た記憶があります。


その頃から「超」が5回つくほど積極的でやる気マンマンな人でした。スケッチブック片手にドシドシ有名人にコンタクトする話を聞くと、こいつやるな!って思いましたね。お互いアメリカNJ州での生活経験があったからか、怖いもの知らず気質同盟を組んだ訳ではないけど意気投合し、また別の日に会いました。一緒に森の中を歩いたり、焚き火をしてマッカラ(フィンランドを代表する料理:焼きソーセージ?!)を食べたりして、太陽の明るい夜を過ごしました。フィンランドを代表する建築家であるAlvar Aaltoのサマーコテージを訪れた時のこと, Juha Leiviskaの教会の光や、フィンランド人と森との関わり方は日本人とは違うのだよ、と言ったことを話していたのでしょう。


その頃の光嶋氏の旅話は、『建築武者修行 放課後のベルリン』光嶋裕介著 イースト・プレス  pg.271あたりに書かれています。


私はフィンランドから東京に帰ってきて、会社員カメラマンの仕事に就いたけれど、ウエディングばかり撮っていて、これじゃダメだと退職して一から写真を学ぶために八倉巻写真事務所の門を叩きました。コマーシャルフォトの世界で修行しました。


光嶋裕介も東京で真っしぐらに建築の旅を続けます。早稲田の大学院生の頃、私のところに連絡があり、ポートレートを撮って欲しいと頼まれました。作品撮りとして、アシスタント業務の後に白ホリのスタジオを借りて撮影をしました。その写真と履歴書を送って、ベルリンの建築事務所で職を得たのですから、部分的に私のおかげですね(笑)。今でも使っている裕介のFacebookの写真がそれです。このイケメンは誰?(今とは別人なんですけど)と言われるほどです。


photo ©︎ Shuhei NEZU


その後は、Facebookが流行ってきてお互いになんとなくどうしているのかをキャッチしていましたが、一度代官山でのラテン音楽のライブ(SAYAKA)で遭遇した以外は、なかなか会うまでには到りませんでした。


思想家の内田樹さんの自宅兼道場ができるまでの奮闘記『みんなの家。』〜建築家一年生の初仕事〜は「ヤツ、やったな!ちくしょうー」と思って、真っ先に購入しました。信濃毎日新聞で、裕介の挿絵が入った内田樹さんの連載記事を見つけるのも楽しみにしてましたね。


私が2012年に東京から長野県上伊那郡中川村に移住して、『老人とダリア』と題し、老人のポートレートとダリアの写真を掛けた作品を今まで5回発表しました。写真展示のお知らせカードを光嶋裕介にも送ったら以下のような返事が届きました。


>>>2013.12.6

修平さん、こんばんは。展覧会のポストカード、届きました。個展、おめでとうございます!ちょっと長野に行く時間がありませんが、応援しています!いつも言ってますが、落ち着いて、ゆっくり話しながら、再会したいですね。それまで、お互い、頑張っていきましょう!お身体ご自愛してくださいね!光嶋拝

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いつも丁寧なメッセージを素早く返してくれます。毎年年賀状を書くとか、ちゃんと返信するとか、僕がコンスタントに出来ないことを裕介はしっかりとこなし、そういう小さなところも見習わなきゃなと常々感じていました。


2016の年賀状に僕が「土地が見つかりそうです、その時は是非設計をお願いします。」みたいなことを書いたら、こんな返事がきました。

後から聞くと、「そんなこと言う人はよくおるけど、、、またまた、、ほんまかいな?」と裕介は思っていたそうです。


長い月日を振り返って書いていたら随分と長くなっただけで落ちも、とりとめもない投稿になってしまいました。




タタッタラ

家が建っていく様を綴らねばならないという使命感を基にした記録。

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